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このブログを書いているひとの残念な職歴

これが初めての投稿となるのだから、誰も興味がない(というか見ない)としてもまずは自分を知ってもらうことから始めようと思う。

僕は現在31歳関東在住の会社員だ。
会社員としての年収は約540万円、こっそり営む個人事業の収入が年間100万円ある。
結婚もしておらず子供も勿論いないので、現在はゆったりした生活を送れているように思う。

「ゆったりした」なんて言っても平日は定時あがりの会社員、土日にちょっぴり副業をしながらキャンプに行ってみたりするくらいの生活だ。

このブログを書こうと思ったのも、コロナの影響で暇を持て余すようになったからである。
ここから書き記すことは主に僕のこれまでの社会人経験をまとめたもので、超個人的な備忘録である。

何かの間違いで読んでいただけたのなら「ふーん、こんなやつでもまあまあ生きていられるんだな」程度の感想をもっていただければ幸いに思う。

22歳 あニート脱出プログラムへの参加

就職セミナーへの参加

「新卒就職」というカードあっさり手放した僕は、実家に戻って短期のアルバイトをしたり、就職先を探すふりをしてダラダラと過ごしていた。
半年ほど過ぎた頃だろうか、未だ人生のモラトリアムを気取る僕に母がとあるチラシを手渡した。

「第〇〇回 就職セミナー生募集!」

たしかこんなタイトルのチラシだったと思う。母からのやさしい圧力を感じ取った僕は、早速スマホを手にとり選考面接の申し込みをした。

この就職セミナーは大手派遣会社が県から受託して行っている事業で、以下の流れでニートを世にだそうというものだった。

座学(1ヶ月) マナー講習やグループワークを行い社会に出る準備をする

職場体験(6ヶ月) 派遣会社が用意したリストから行ってみたい企業を選ぶ。面接を行い合格したら職場体験が始まる。

就職 職場体験が終わったあとで、双方が合意したらそのまま就職ができる。受け入れ先企業が半年経過後に不採用にする場合もあるし、半年を待たずに新たな企業に職場体験の場を移すセミナー生も多々いる。

いずれにせよ7ヶ月という期間が定められており、その間に職場体験を経てどこかの企業に就職しましょうということだ。
この期間はセミナー生には派遣会社から給料が入るため、給与をもらいながら就職活動ができる

一方体験受け入れ企業はタダで半年間求職者の選別期間が持てるという仕組みのようだった。
なんと美味しいセミナーだろうか。

簡単な面接を通過し参加が決定した僕はウキウキでその時を待った。

セミナー1ヶ月目


今思い出してみてもなんともヌルい座学だった。
平日に1日4時間程度、マナー講師が来てお辞儀の仕方や名刺交換の仕方、敬語の使い方を練習したりする。

パソコンスキルといったものの学習は一切なく、時には「パンとサンドイッチのどちらが運動会の昼食に適しているか?」レベルの謎のグループディスカッションが行われたりもした。

参加者は18〜30歳くらいの男女で、コミュ障やメンヘラ、中二病ゲーマーなど動物園のようなメンバーがスーツに身を包み日々社会人ごっこをするカオスな日々が続いた。

中でも思い出深いのが『カバ子ちゃん』だ。
彼女は19歳でアンパンマンに出てくるカバオくんそっくりな女性だ。
自称既婚(籍は入れていないとのこと)で旦那はフリーター

声が必要以上にでかい上に、いつもピントのずれた意見を声高に主張する奴だった。
年上にも自分の意見をはっきり言えるところは美点だが、大体よくわからんことを言い始めるので手に負えない。
怒ったり泣いたり喚いたりすることも多々あり、扱いに困る奴だたけど2週間が経ったころに妊娠してセミナーを抜けていった。

就職しろよ。なんのために来たん?

座学は眠気をこらえるのに必死だった

セミナー2ヶ月目


座学の間に派遣会社が用意した体験受け入れ企業リストから、行ってみたい企業をいくつか希望していた。
僕は営業と接客以外を希望していて、できれば事務がいいと思っていたのだけれど、リストの大半が営業・接客・介護だったため仕方なく適当にいくつかの希望を出した。

職場体験① 薬箱設置営業

職場体験として採用になったものの「この仕事需要あるの?」と思いながら行った思い出。

自社の薬がつまった薬箱を抱えて一般家庭に設置をお願いしてまわる仕事だった。
設置が成功したら定期的にチェックに周り、使ったぶんだけの薬代をいただく。ドラッグストアが無い田舎ならまだ需要はあったかもしれない。

初日は先輩と一緒に回った。知らないお宅の呼び鈴を押し、運良く玄関まで入れたら必殺のセールストークをかます。

「「「必要ないと思いますし使わなくてもいいのでなんとか置かせてください!お願いします!」」」

1日に数十件訪問しないければならないため、余計なアイスブレイクや質問は不要。
対面できたらこの通りに言えとのこと。

そして「相手が老人とか押しに弱そうな人だったら土下座をしろ」というのが研修で教えられたすべてであった。
同行した先輩は土下座しながら泣いて見せるそうだ

ちなみにこのときは冬で気温は5℃以下、雪のなか担当エリアを歩き1日100件訪問することが目標だった。

3日目のお昼、暖房が禁止されている社用車でブルブル震えながらお昼ご飯を食べていたとき、先輩から電話があって「設置成功するまで帰ってこないくらいの気持ちでやれ」とありがたい指導をいただいた。

その日は夜遅くまで歩き回ったが結局何の成果も得られず。
「くそう、明日こそ!」みたいな根性がない自分はその日のうちに職場体験の中止を申し入れた。

結局土下座はしなかった

職場体験② 美容品ディーラー


ルート営業だから新規営業とは違って楽だよ」と派遣会社の人に言われて安直に決めた僕だったが、この決断が以降の人生に大きな負荷をかけることになる。

この仕事は決められた美容室を回って「足りないものはありませんか?」とか「こんな商品出ました」とか案内することがメインだった。

コミュニケーションはそれなりにとれるタイプなので仕事としては辛くなかったし、ヘアワックスとかカラー剤とか興味のあるものが多かったので苦でもなかった。
顧客は個人で営業している美容室がほとんどで、いろいろな人間に会えたのはいい経験になったと思う。

会社も一族経営でやってるような古い有限会社で、アットホームな感じだった。

そんな会社に唯一人いる親族外の先輩社員。
当時29歳だかそこらの小太りな先輩が僕のメンターとなった。
ここでは仮にSさんとするが、Sさんはちょっとぶっきらぼうながらも優しい、クマみたいなひとだった。
言っていることもまともだったし、向上心もあるタイプで「この会社を乗っ取ってやる」みたいなことを半分本気で言っていたりもした。

向上心と意識は高いが、月収は15万円らしかった

Sさんの指導のおかげで仕事もだいぶ覚えたあるとき、はじめてプライベートのお誘いを受けた。
飯の誘いかと思いきや、連れて行かれたのはアパレルショップ。どうやら知り合いの店らしかった。

Tシャツ2万円くらいの価格帯のお店で「こんなおしゃれな店もあるもんだなー」くらいに思っていたのだが、いつのまにか「どのアイテム買う?」みたいな流れになっていた。

一流の仕事をするためには私服も一流でないととか
ファストファッションを着ているやつは幸せになれないとか
そんなことを僕に説明する店主と月収15万円の人。

結局その日は何も買わずに帰れたのだが、それ以降月に何回かその店に連れて行かれるようになった

先輩との関係が気まずくなるのも嫌だし、少しくらいかっこいい服を持っててもいいかと思った僕は3万円のシャツを1着買った。

おしゃれっぽい店ではあった(イメージ)


翌週から店に連れて行かれる頻度が上がった。

給料が入るたびに店に連行され、新たなアイテムを買わされる。
はじめは嫌々買っていた僕も、しだいに店長&Sさんの高いマインドにあてられていった。
気がつけば毎月15万円くらいその店に落とすようになっていた

上客として認められたのだろうか、その頃には店長から来店を促す電話やメールがきたり、勝手にアイテムの取り置きをしてくれるようになっていた。

いつの間にか100万円あったクレジットカードの枠を使い果たし、僕は「あとからリボ」という魔法を覚えた。


月収15万円のSさん、お元気ですか。

リボの返済の足しにするため、あのとき買った服は売りました。

まったくいい勉強になりました。

辛いとき、たまにSさんのことを思い出します。

「29歳で月収15万円の奴もいた。」

そう思うと元気がでます。

どこかでお会いしても話しかけないでください。

貧乏がうつるんで。

地元の広告代理店に就職


結論から言うと美容品ディーラーには採用されなかった

どうやらはじめから採用するつもりがなかったらしい。
社長からそんな話を聞いたSさんは、やんわり僕に教えてくれた。

半年も時間を使って得たものは、ちょっとした美容の知識とリボ払いでこさえた借金だけだった。

正社員になりたい。

同年代の友達は地元の有名企業に勤めていたり公務員になったりしていた。
おちこぼれの僕だったが、なぜか周りの友人はみな優秀だった。
それだけに、開いてしまった差に若干のコンプレックスを感じていた。
そんなあるとき、とある求人を発見した。

\ 広告代理店 幹部候補(正社員)募集!/

広告代理店ってかっこよくね?幹部候補っていい響きじゃね?と思った僕は、セミナー途中だったが勝手に外部の求人に応募をした。

書類選考が通ったのちに面接。
無事に採用が決まったあとでセミナーに事後報告をし、僕の就職セミナーは幕を閉じた

給料を貰い、色々と指導もしていただいたにも関わらず随分身勝手なことをした自覚はあったが、当時の僕は「正社員」という肩書がなにより欲しかった。

買えるのなら買っていた。リボ払いで。

念願の正社員となった

24〜28歳 繰り返す出世「名ばかり管理職」の意味を知る

広告代理店に入社後、ひょんなことから社長に可愛がられていた僕は無事に研修期間を終え営業として働いていた。

僕の入社と同時に転勤になる上司がいて、その上司からクライアントを貰うことができたので目標は黙っててもクリアできた。

入社から2年くらいが過ぎ、後輩ができた頃に僕は主任になった

といっても僕の所属する支社は5名しか社員がおらず、業務も平社員のときと同じことをしていたので、ただの称号みたいなもんだった。

まあ給料が上がるならうれしいことだよねと思っていた僕だったが、主任になってからの売上目標はさらに高いものとなり、達成したりしなかったりという具合になってしまっていた。
それでもこの時は仕事にやりがいを感じていたように思う。

右肩上がりのモチベーションに影を落とすきっかけとなった事件があった。給与改定だ。
ざっくり説明すると役職の見直し基本給ダウン成果給アップが主な内容だったのだけれど、問題が2つあった。

一つは役職者の見直しのどさくさに紛れて課長に昇進してしまったこと
もう一つが新たに設定された売上目標が高すぎたこと

これによって残業や休日出勤の時間が増えた。
主任まではみなし残業20時間が給与に含まれていたのだが「管理職は経営側の人間だから」ということでこれが消滅した。
基本給は上がったものの、みなし残業の加給が無くなったのでプラマイゼロ。
売上目標は上がったので勤務時間だけが増えていった

課長になってからも業務内容は変わらず、部下と同じように新規営業にいそしんだ。
そのころ社内ではいろいろな問題が起きていた
目標達成のために経理に架空の売上報告をしたせいでクライアントに見知らぬ請求がいったり、元詐欺師が入社したり、社長が友達を会社に入れていきなり部長にしたかと思いきや経費の使い込みで失脚したり……。

不穏な空気が漂い始めるにつれて、先輩社員たちはどんどん会社を離れていった。
有能で若い人ほど早く会社を去っていったように思う。

一方僕といえば、自分が有能だと思うことは無いにしろ「なんかヤバそうだなこの会社」くらいの危機感は抱えていた。

1日100本を超えるテレアポをばかみたいに繰り返してはいたものの成果はでず。
何か月も売り上げ達成ができない日々が続き、自分も退職をリアルに考え始めるようになった。

28歳 闇営業 DTPデザイン・動画編集を学ぶ


目標達成ができないと収入が上がらない。
しかも先の給与改定によって基本給さえ下がってしまった。
会社もなんかヤバそうだ。
そう考えた僕は、闇の仕事に手を染めはじめる。

クライアントからよくある相談として「チラシを作りたい」「HPに乗せる動画を作りたい」などといったものがある。
当然自社で請け負い売り上げにつなげるのがベストなのだが、中には代理店にお願いするほど予算が無く、結局あきらめてしまうクライアントも多数あった。

こういったクライアントに僕はこうささやく。

「大きい声では言えませんが、僕が個人的に安くやりましょうか?」

正直こんな提案ができるクライアントは、小さい飲食店の店主だとかそういったところに限られる。
きちんとした企業にそんなことを言ったら一発で信用を失う。最悪会社にタレコミが入る。
僕は極めて慎重にクライアントを選別し、闇営業を持ち掛けた。

はじめは難しいことはできないので、印刷するだけだとか簡単なデータの修正などをタダ同然で行った
そのうちチラシやパンフレットの作成新規開店する美容室の看板デザインエステ店の動画編集など制作スキルを身に着けながら、徐々に高額な案件を個人的かつ秘密裏に受けていった。

本業の時間を使って営業してまわり、イケそうな筋には闇営業を持ち掛ける。
常にノートPCを持ち歩き、本業そっちのけで闇営業に没頭した

ひょんなことから始まった闇営業だが、人づてにクライアントの紹介やカメラマン・デザイナーとの出会いがあったりして、いつのまにか月に20万くらいは売上が立つようになっていた
利益率としては50%くらいだったけど、会社員の副収入としては十分な額といえよう。

闇営業を始めて数か月が経つ頃、僕は個人事業主としての登録を済ませ、住居兼作業場としてアパートを借りた。
デザイン制作や動画編集が楽しくて、会社から帰ったあとは闇の仕事と新たなスキルの習得にいそしんだ。

すっかり本業の売り上げ目標なんかどうでもよくなっていたのだが、不思議なことに闇営業で得た知識と経験が功を奏して、本業でもいままでにないような大きな仕事が取れたりしていた。

この時の僕は、全部バレて訴えられたら勝てないようなことをしつつも、替えの利く営業部隊の一員というポジションから抜け出せた気がしてやりがいすら感じていた。

当時はsurface Laptop2を持ち歩いていた

29歳 キャリアアップ失敗


相変わらず会社を去る人材は絶えなかった。
ひとりまた一人と退職者が続き、同僚はほとんどいなくなってしまった。
残ったのは40歳以上で家庭をもっている古い人たち。
みんな10年以上努めているけど、収入は取締役でも月収25万円という現実が悲しかった。

これ以上残っても負担が増えるだけだ。

そう思った春の終わりに、僕は退職を切り出した。
再就職先は決まっていた。
某有名広告代理店からすでに内定をもらっていたのだ。

はじめて正社員にしてもらって5年間務めたしょぼい会社を去った僕は、
ついに本物の広告代理店で働ける!」「キャリアアップ最高!」とか思っていた。

結論から言おう。僕は転職後半年でこの会社を辞めてしまった。

全くついていけなかった 笑
デザインの技術なんかはほとんど役に立たなかった。
営業として一流のバグったソルジャーに囲まれ、朝から晩まで働く毎日。
限界を感じ始めるまでに大して時間はかからなかった。
今振り返ってもうまく言えないのだけれど「彼らとは住む世界が違う」と思ってしまった。

誰とも仲良くなれなかったし、成果も残せないでいた。
当たり前のように常態化している長時間労働と意識や思考の違いに、疲労していく心と体。

心と体はつながっているなんて言うけれど本当にそのとおりで、このころは急に動悸がしたり不整脈がおきたりと体調は最悪で参っていた。

とにかくもう逃げ出したくて、逃げ出した。

30歳 退職 拾う神はいた


節目の誕生日をおよそ想像とは違うかたちで迎えてしまったが、悪いことばかりではなかった。
前職でお世話になっていたとある会社の社長から連絡があり「総務としてウチで働かないか?」というお誘いをいただいたのだ。

県外の会社だったので会社のある関東圏への移住が条件になるが、年収は200万円くらい上がる引っ越し代なども援助していただけるうえ残業なしとのことで、断る理由はなかった。
広告やウェブ系に強い事務員が欲しいと思っているとき、僕のことを思い出して連絡をしたらドンピシャで次の職に困っていた、ということのようだった。

まだ大手広告代理店でかろうじて働いていた僕はすぐに退職願を提出。
あっさり受理された。

その後ちょっとした準備期間を経て、引っ越し・転職をしてもう1年半が経つ。
ブルーカラーの会社なので気のいい先輩が多く、環境には恵まれている。

本当に転職してよかったと思う

31歳 副業はまだ続けている


かくして僕は紆余曲折を経て、とりあえず恵まれたと思える収入と環境に収まった。

こうして社会人としての僕の経歴を思い起こしても、まったくろくな奴じゃないと思う。
致命的に落ちぶれてしまってもおかしくないタイミングはたくさんあったと思う。

新卒カードをドブに捨てたとき就職セミナーに7ヶ月通って採用されなかったとき服屋に乗せられてリボ払い100万円をキメたとき闇営業を初めたとき勘違いして大手企業に転職して惨敗したとき

ここではとても語れない恥ずかしいこともたくさんある。それでもなんとか生きてこられたのはひとえに運と縁のおかげかなと思う。

収入や環境には満足しているものの、副業はいまでも続けている。
かつての闇営業のように自社のクライアントを流す、なんてことはもうできないので、いまはクラウドソーシングで主に動画編集業務を受注している。

自分で稼げるようになるためのポイントはこちらの記事にまとめてある。

これもまた金銭的また精神的な支えになっていることは間違いない。

長い自分語りはこの辺で終わろうと思う。

初めてのブログ記事投稿は書きやすいものから書きたかった。

続くか怪しいところだけど、次の投稿からは誰かのためになりそうな情報を発信できたらいいなと思っている。

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