この記事を読んで得られるものは特にありません。
これまで僕が遭遇した素敵なお年寄りを淡々と紹介するだけです。
個人的な咀嚼と浄化的な意味合いが強いですが、少しでも面白く書けるように挑んでみますので暇つぶしにどうぞ。
悪質タックル老婦人
これは終業後のJR駅での出来事。
始めに断っておくと、これから話すできごとの原因は僕にある。
配慮が足りなかった僕のせいで引き寄せてしまったできごとだが、いまひとつ釈然としない嫌な後味を残すものとなった。
しかし学ぶことはあったため、今一度記憶を呼び覚まし文章にすることによってこれを精神の糧としたい。
その日も定時で仕事を終えた僕は、家に帰るためいつも通り最寄り駅へと歩いていた。
会社から最寄り駅まで徒歩5分、そこから電車で1駅乗ってまた5分ほど歩く。
歩いては通えないが、会社から自宅までドアtoドアで15分の道のりだ。
コロナ禍といえど僕の勤める会社、というか僕の部署にリモートワークは無く、ここ最近もいつも通りに週5日出社している。
コロナが広まってはじめのころは「通勤の電車で感染しないかな?」と思っていたものだが、今はすっかり慣れてしまった。
窓が開け放たれた電車にマスクをして乗る。
もう何十回、何百回繰り返しているうちにそれが日常となっていた。
もうすぐ最寄り駅に到着するという頃、僕はひとつミスに気が付いた。
マスクをしていない…会社に忘れてきた。
きょうはたまたま室内に僕一人で来客も無かったため、午後からマスクを外していたことを思い出す。
逡巡をする。
もう駅は目の前、戻るのも面倒だ。
使い捨てのマスクは家にしこたま備えてあるので、キオスクで買うのも億劫に感じる。
予備のマスクくらい鞄に入れておけばよかったのだが、それもしていなかったため僕はそのまま駅へと入った。
「まあ一駅だしいいか。」
僕はシャツの袖を伸ばし、口と鼻を抑えるようにして改札をくぐり、ホームの一番端で電車を待った。

電車が来る。
乗車時間は3分。面倒だけどこのまま口と鼻を抑えてやりすごそう。
SNSでの私刑を恐れた僕は小さく縮こまりながら、皆が乗り込むのを見届けた後いそいそと電車に乗り込んだ。
端の車輌だったこともありさほど混んでおらず、僕は乗り込んですぐの入口付近を陣取り、窓の外に向かって立った。
すると突然、腰のあたりに軽い衝撃が走った。
ドンッ
誰かがぶつかったようだ。
混んでいないとはいえここは狭い車両の中。
移動の際にバッグでもぶつけられたんだろう。
そう思えるくらいの貧弱な衝撃だった。
ドンッ
まただ。
今度の衝撃はさっきより若干強い。
とはいえ僕は入口付近のてすりにつかまっているし、特段体制を崩すことは無かった。
さすがに2回目ともなると気になるというもの。
僕はちらっと背後を見やった。

仕事に出ている印象ではないから60代後半くらいであろうか、細身で背中が若干丸まっているが化粧は濃い。
そんなマダムが僕に3度目のタックルをしかけようとしていた。
肩にはトートバッグを背負っている。
それをさながら大楯のように前面に構え、こちらに向かってくる。
構えたバッグは衝撃吸収と接触回避を担っているというわけか、やるじゃん。
2度の衝撃がこのマダムによるタックルだったことを知った僕は、3度目の衝撃に備えた。
こちらは小中高9年間バスケ部、ゴール下でのせめぎ合いを思い出しながら重心を下げる。
マダムがぶつかるその瞬間、悟られぬよう全身に力をこめる。

ドンッ…老いた肉体による貧弱な衝撃。微動だにしない僕。
「…ッチ!」間髪入れず舌打ちが聞こえた。
どうやらこのマダムは僕を電車からはじき出したいようだった。
何故かはわかりきっている。
僕がマスクをしていないから。
テレビでは連日20代・30代がコロナをばらまいているような報道をされている。
おそらく僕みたいにマスクをしないで電車に乗ってくる奴が許せないんだろう。
わかる。わかるよ。
僕だってマスクしてないことくらいわかってる。
失敗したなぁって思ったさ。
弁明はしないよ。僕のせいさ。
いまとなっては冷静に反省できる。
しかし電車に乗った瞬間、見知らぬ老人から3度のタックルを受けた僕はパニック状態になっていた。
この年寄りがギャーギャー騒ぐ。
他の乗客が動画を撮る。
ネットに拡散される。
住所特定。
みたいなことを考え、心臓は嫌に高鳴った。
電車はすでに発車している。
タックルをかましてきた老人は、数歩下がったところから僕の目をじっと睨みつけている。
僕は目をそらさずじっと見つめ返した。
タックルは僕に効かなかったが、次に何をしてくるかはわからない。
トートバッグで殴り掛かってくるかもしれないし、水筒のお茶を浴びせてくるかもしれない。
はたまた入れ歯を使ってアーロンよろしくトゥースガムをしてくるかも…
僕を睨み続けるタックル老人は目をそらさないまま、ゆっくりとバッグに手を入れた。
「来るッ…!」僕は身構えた。
老人がやおらバッグから取り出したものは、除菌ウェットシートだった。
僕を見据えたまま、乱暴に2枚3枚とシートを出している。
困惑を隠せない僕から視線をはずし、そして老人はゴシゴシと自分のトートバッグを拭き始めた。
除菌だ。
マスク非着用かつ世にコロナをばらまく病原体である若者。
そいつに触れてしまった自らのバッグを入念に拭いている。
バッグを一通り拭き上げた後は、自分の手と肩を新しいシートで拭き始めた。

やがて老人は再び僕の目を見る。
その目に怒りの色はもう窺えない。
そのかわり、今度は何かに怯えているような目をしている。
「ヒィイ…人殺し!」「殺される!」そう訴えているような目だ。
見せつけるように、しつこく何回も除菌を重ねる老人。
自分のバッグを拭き、僕を見る。
手を拭き、また僕を見る。
日大アメフト部もびっくりの連続タックルを仕掛けてきたかと思いきや、今度はすっかり被害者ポジションに立っている。
僕は単純に思考を失った。
冒頭でも断った通り、何がこの老人を凶行へと駆り立てたのかと言えば、まぎれもなく僕だ。
マスクをしていないから。
乗る車両の位置とか、手で鼻と口を覆っていたからとかいう以前に、マスクをしていればよかった話だ。
とはいえ、そんな若輩を目にした老人が、僕の2倍以上生きてきたであろう老人がする対処として「連続タックルで車輌からはじき出す。失敗したら見せつけるように除菌してばい菌アピールする」というのはあまりに稚拙である。
繰り返すが、悪いのは僕である。
駅へとたどり着いた僕は、そそくさと車両を降りようとする。
その背中にまたしても衝撃が走り、舌打ちが聞こえてきた。
悪いのは僕である。
なんとも言えないモヤモヤした感情を抱えながら、僕がたどり着いた今回の帰結。
電車なんかに乗ってる僕が悪い。
世の金持ちは電車なんか乗らない。
もっと仕事と副業を頑張って、会社の近くに住むなりタクシー移動ができるようになろうと思った。
あのババアは悪くない。
ちっともムカついてなんてない。